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 Miyama-so 

旧スイス公使館 (深山荘)

 

“昭和初期、東京在住の実業家「前田栄次郎氏」は、軽井沢町三笠に土地を求め、貸し別荘「前田郷」を開業した。氏は、昭和8年(1933年)、軽井沢自生のからまつ材を用いて磨き丸太をあらわしにしたログハウス「前田郷本館」を中心に、数十軒の貸し別荘を建てた。太平洋戦争開戦翌年の昭和17年(1942年)、建物の中央が三階建ての塔屋を有する前田郷最大の施設「深山荘」が建設された。

 昭和19年(1944年)5月、軽井沢町は「空襲時二伴フ在京外國外交官及其家族ノ避難處理要網」により箱根及び河口湖とともに外国人の疎開地に指定され、「深山荘」はスイス公使館の疎開別荘として使用されるようになった。

 軽井沢に疎開した外交団は深山荘のスイス公使館を始め、アルゼンチン、ルーマニア、ポルトガル、スウェーデン、フランス、スペイン、ドイツ、アフガニスタン、デンマーク、中華民国、イタリア、トルコ、赤十字国際委員会の13カ国1国際機関に上り、約250名の外交官及びその家族が滞在していた(昭和20年6月1日現在・外務省外交史料館史料による)。そして、軽井沢における疎開外交団のとりまとめとなったのが、ゴルジェ公使を長とするスイス公使館であった。

 外務省は疎開外交団への対応を行なうため、昭和20年(1945年)4月、休業中の三笠ホテルに外務省軽井沢事務所を設置し、ハンガリー駐在公使だった大久保利隆を所長兼特命全権公使として派遣した。軽井沢事務所は、食料事情の極端に悪い中、これら多くの外交団への食料等生活物資供給に尽力した。また、疎開者の流入により住宅が不足する中、前田郷を経営していた前田栄次郎氏は、多くの貸し別荘をスイス外交団をはじめとする外国人に提供した。(なお、民間の外国人も約2000名が疎開していた。)

 軽井沢に疎開した外国人は、食料不足や軽井沢憲兵分遣隊による監視に悩まされながらも、結果として空襲による犠牲者を一人も出すことなく終戦を迎えた。

 また、戦前から外国人との交際に慣れていた軽井沢在住者の多くが、戦争末期においても変わらぬ交友を続けようと努力したことが多くの証言で残っている。

 日本とスイスは1864年に「日本スイス修好通商条約」を締結して国交を結んで以来友好関係を築いてきたが、軽井沢の深山荘と三笠ホテルは、太平洋戦争という極限の状況下においても両国の友好と友情が守られたことを示す、日本とスイスの友好の記念碑であるとも言える。”

 

(軽井沢町教育委員会 平成22年12月)「旧スイス公使館(深山荘)案内板より」

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